熊本地震5年追悼のつどい参加と昨年7月豪雨被災地訪問報告

 4月15日から18日まで熊本地震5年目を迎えた益城町、西原村及び昨年7月豪雨で大きな被害を受けた人吉市、球磨村を訪問してきた。地元の人々にとってはごく身近な光景だが、遠く離れて暮らす私たちにとって、また新たな気づきがあった。

 

 熊本地震は5年前の4月14日21時26分と16日1時25分の2回、マグニチュード6.5と7.3、被害の最も大きかった益城町ではどちらも震度7の地震が発生している。一度目の地震で何とか持ちこたえた家が2回目の地震で止めを刺されたという声をよく聞く。

 益城町の仮設団地は最も多い時で18カ所、1,562戸あったものが、木山仮設団地に集約され3月末で152人の方々が住んでいる。熊本地震では建設型仮設住宅よりみなし仮設と呼ばれる借上げ型が数で3倍以上あるため、5年経った今現在も仮設に住む方々がどれほどおられるのか正確には分からない。いずれにしても、様々な理由があって今も仮設住宅に住んでおられる。

 

そ の木山仮設団地で今も活動を続ける「移動図書館おあしす」の橋本信一さんや元の住民が中心になって、「熊本地震5年追悼のつどい」が4月14日と15日から16日にかけて木山仮設団地で開催された。私たちは都合で15日からの参加となったが、暗くなり始めた頃から竹灯ろうに火を灯し、いったん19時に参加者全員で黙とう。それから火を絶やさないようにして、16日の1時25分を迎える。さすがにこの時間まで残る方々は少ないが、それでも15名ほどの方々が黙とうの合図で手を合わせる。

 4月とはいえ、熊本の深夜は冷え込む。その中で5年前、人々はどういう目に遭ったのかと思いをはせる。

熊本県内及び九州全域で各テレビ局からこの追悼のつどいはニュースとして放映された。後でその時のニュースを見たが、その中で橋本さんは「追悼の思い、これが一番の気持ちです」と語り、仮設住宅が今後なくなっても、このつどいを続けていきたいとおっしゃっていた。

 翌朝は竹灯ろうの片づけ。軽トラック2台分の量になった。今年は約五百の竹灯ろうだったが、来年はもっと多くの竹を用意しようと、主催した人たちは話し合っている。作業の合間に熊本市内からボランティアで来られていたお坊さんと仲良くなり、これまでいろんなところで活動してこられた体験を伺った。

 昼からは移動図書館の活動。現在、本を借りに来られる方々は、元の木山仮設の住人がほとんど。仮設から越した後も、毎週金曜日の図書館の日には本を借りに来る。どんな本が人気なんだろうと見ていると、女性週刊誌や料理、手芸の本などに人気があるようだ。もちろん、本屋大賞を取った本なども準備され、小説を借りていく人もいる。

 私はこの機会にと、隣の西原村にも足を延ばした。西原村は小森仮設団地という村で1カ所の大規模な仮設団地があったが、そこの大半は撤去され、ちょうど体育館の建設中だった。ここで、餅つきや落語の会などやったことが懐かしい。元々、先のことを考えて作られた恒久的な木造住宅はそのまま復興住宅となっている。まだプレハブの仮設も少し残っていたが、どれほどの住民の方が住んでいるのか外からは分からない。

 益城町や西原村に来させてもらうようになって5年ほどになるが、こちらで親しくなったご夫婦は「遠くから来てくれて本当にうれしい」と言われる。こっちは大したこともできないので、面映ゆい感じだが、お二人がおっしゃるには「震災の被害を受けて、落ち込んでいる私たちを励ましに来てくださることが、どれほど力になっているか」と。

そう思っていただくだけで、こちらも元気をもらう。

 翌17日は、橋本さんの案内で昨年7月の豪雨で大きな被害を受けた球磨村、人吉市を訪れた。熊本県内とは言えもう、宮崎県、鹿児島県との県境である。熊本から九州自動車道を南下、八代を過ぎるとどんどん険しい山の中に入っていく。熊本から80キロ弱で人吉ICを下りた。この辺りの地理に疎いが、球磨村は人吉市よりも球磨川の下流域にある。両側から山がせまり、その谷あいを球磨川が流れている。ふだんは川下りを楽しんだり、川沿いには肥薩線の観光列車が走り、観光名所として多くの人が訪れるいいところだったと想像がつく。

 つい2,3か月前ごろまで、川沿いの国道は工事関係車両以外通行止めにしていたようだが、村役場のある一勝地まで向かった。国道周辺も水害に遭っており、道路上のがれきは片付いているものの、周辺はまだその爪痕が生々しく、家屋はほとんどが一階、または二階まで水に浸かった様子で、中は片づけられているが人は住んでいない。道のそばの木の上の方にビニルのごみが引っかかったままになっている。ここまで水が来たということか。

 肥薩線のレールも路床が流され、浮いたり曲がったりしている。

 橋本さんたちが昨年暮れから球磨村のグラウンド仮設団地の集会所で移動図書館を月に1回始めたとのことで、その仮設団地を訪れた。この仮設団地は、RC基礎のしっかりした木造住宅で、徐々に住み心地が改善されてきている。隣のさくらドーム仮設団地はムービングハウスと呼ばれるトレーラーハウスがずらっと並んでいる。

 球磨村を後にして、人吉市市街地へと向かう。ここは広い盆地の歴史のある街で江戸時代相良氏が治めた人吉藩の城下町として栄えたところである。広い盆地のここがなぜ水害被害に遭うのかと思うが、球磨川は川辺川を始め、多くの支流が流れ込んでおり、おまけに人吉の先の球磨村から八代にかけて両側から山が迫る地形のためにボトルネック状態になっており、それでと合点がいった。

 人吉駅に近い青井阿蘇神社は1,200年以上前に建てられたもので、主要な建物すべてが国宝になっている。昨年の水害では拝殿の床上まで浸水し、楼門の前にある禊橋は欄干が破壊された。ここの境内で3月27日に「つなGOランドin国宝青井阿蘇神社」が開催され、「すまいるこども食堂」が焼き芋とたこ焼き屋を出店しすべて完売したそうだ。売上げはすべて地元の復興のために寄付。また、球磨村の仮設住宅の子どもたちにと木山仮設団地に暮らした人々がお手製のマスクを寄贈。生地は鬼滅の刃のデザインでこれは子どもたちに大人気だったそうだ。この生地はひかりプロジェクトから支援させて頂いた。ほんの少しだがお役に立ててうれしい。

 このようにして、熊本地震で被災した人々がその時多くの人々のお世話になったからと、豪雨災害の被災者の支援をする姿はありがたいことと思わせていただいた。

 また、人吉市内で水害に遭った人からその時のことを直接伺った。2階の階段のすぐ下まで水が迫り、隣の人の呼びかけでさらに二階の外にある物干し台まで這って逃げた方や、すぐそばを球磨川が流れる方は、自治会長からの電話で外を見たら堤防から水があふれだしており、寸前のところで逃げ出したと聞いた。泥水につかった家の後のことは大変だが、今もなお続く復旧作業に、一日も早い元の生活をと祈るばかりである。

 翌18日、関係者と一連のボランティア活動について意見交換をさせてもらい、活動を通して学んだことについていろいろお話を伺い、帰路についた。4日間の熊本訪問であったが、今回は比較的時間に余裕があり、いろんな人たちと多くの会話をさせて頂いた。